怖いおじさん、ありがとう


我が家の息子、蜜柑は最近ひらがなが読めるようになり、いろいろな文字を読んで欲しがる。新聞、本、看板、チラシ、なんでもかんでもだ。中でも気に入っていたのが、車のナンバープレート。必ずひらがなが一つだけ、それも目立つように書いてあるので、車の脇を歩くたびにナンバープレートを指差し、私がその文字を読まされることになる。
これがもう、自閉症特有の「こだわり」になってしまった。さすがに動いている車には近付かないものの、まさに発車しようとしている車に寄って行き、ひやっとすることが何度かあった。その都度、人が乗っている車に近付いてはいけない、と叱って止めるのだけれど、この自閉症者の「こだわり」って奴はなかなか厄介で、無理にやめさせられない。強迫神経症の人が例えば、しつこく手を洗わないといられなくて、ばかばかしいと思っていてもやめられない、と言うのとは少し違う。
それをすることが日常生活の中に組み込まれてしまっているような感じ。うまく言えないけれど。朝、顔を洗うとか、食事をするとか、それと同じ位の重要な位置を占めてしまっているような感じだ。「こだわり」を実行することが、生活の流れの手がかりになっているというか。だから無理にやめさせようとすると、生活の手がかりがなくなってしまうことになるので、パニックを起こしたりすることが、よく、ある。

でも、このナンバープレートへの「こだわり」が、ひょんなことで、ぱったり止んだ。


怖いおじさんと、そのおじさんの車のおかげだ。


自閉症の人というのは、雰囲気を察することが苦手だとされている。「相手が退屈しているのに気付かずに、自分の好きなことの話ばかりする」とか、「どんな偉そうな人・怖そうな人にも同じ口調で話しかける」など、いろいろ例にあげられる。我が家の息子、蜜柑も、例外ではない。


でも、その車は、あまりに、あまりに、怖かった。


いつも路上駐車が絶えない、近所の公園。車がたくさん見られるので、息子のお気に入りの場所になっていた。そこにとまっている車のナンバープレートを順番に読んでもらうのが、息子の日課だった。

さて、今日もナンバーを見るぞ! ナンバープレートを指差すべく、人さし指をピンと立てた息子は、その車に近付いて行った。

黒い車。フロントと、運転席と助手席の横のガラスだけが透明で、後はまっっっくろな車。ナンバープレートさえ、グレーの赤外線反射板で覆われ、ついでに斜めに傾けられている。
中に、人が乗っている。強面を絵に書いたようなおじさんだ。私なら絶対近付きたくない。道ですれ違わなくてはならないのなら、1メートルくらい離れて、そーっと通り過ぎたいような人だ。

おい、近付くのかよ、息子! 頼むやめて! そう思う私を尻目に、息子はその車に近付き....ふっ、と、運転席を見た。おじさんと、目が合った。

次の瞬間、息子は何事もなかったかのように、指をピンと立てたまま、すぅ〜っと車を通り過ぎたのだ!


自閉症の子どもに判るほど、怖い雰囲気を発していた、そのおじさんと車。非自閉の人にはよく判らないかもしれないけれど、これは、すごいことだ。

これ以降、息子のナンバープレートへの「こだわり」は、ぱたりと止んだ。もう、息子は、車に突進して行くことはない。


ありがとう、怖いおじさん。感謝しています。こんなところで感謝されているとは夢にも思わないでしょうけれど。これからも怖い雰囲気を発し続けて下さい。
でも、路上駐車は、危ないので、やめてくださいね。